債務整理 千葉 映画、書籍等 | 思いて学ばざる日々

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風の谷のナウシカ


明け方に追い立てられるように斜め読みしたので、正確なファーストインプレッションではないかもしれない。
先に描かれたものだというのに、読んでいて、なぜか宮崎監督の一連の教訓アニメを思い出した。

無論登場人物相関がそっくりシフトされているのもあるのだが、「この表現はあの映画のこのシーンで表現し返している」とか、そんな既視感いっぱいの漫画だ。
それだけに、宮崎監督の表現したいテーマというのが、当時からほぼ一貫しているということが判る。
一連のアニメ映画は、このナウシカの概念をシフトして、いい意味で切り売りしたようなものだ。

宮崎監督は、いろいろな視点から‘神’を描くのが好きなようだ。
私のうろ覚えな記憶によると、映画では、巨神兵は戦争の兵器に過ぎなかった。
‘人類が未だ持ってはいけない力≒神への反逆’的な描写で、
あたかも昨今の原発問題を彷彿とさせるような象徴的なシーンが描かれる。
巨神兵を呼び起こすのは先進主導国のトルメキアでありクシャナでありクロトワであり、禁忌という点ではもののけ姫のあのシーンや相関図とリンクする。

だが、原作では巨神兵は兵器ではなく、やがて人造の神として輪郭をはっきりさせてゆく仕組み。
ここで注目すべきは本来の‘神’について語られていないことだ。
種明かしすると以下のようになる。

腐海はたしかに浄化作業だが、それは地球の自浄作用ではない。
神や自然や地球の業と思っていたことは、すべて先人の計画だった。 
適応とは別に、現人類は瘴気仕様に造り変えられている。
青い衣の伝承は予言ではなく史実だということ≒永い目で見ると、人類は本当に繰り返ししかしていない。
先人は繰り返す混沌と闇に絶望し、善く賢き意思を持って、総取っ替えという計画を‘墓’に託した。

ただひとつの誤算は、仕組まれたはずの命・滅びるはずの命は、その手の中には納まりきれないほどの意思と力を持っていた。神の作り出した命は、一人歩きしはじめたというところなのか。

ナウシカは母性だ。しかも現人類の代弁者でもある。「自分の罪深さにおののきます」と彼女が言うとおり、善き命の未来を閉ざす行為を迷わず選択する。だがそれは現人類の挑戦ということになる。俯瞰で滅びに向かっているとしても、未来に希望を託すという運びだ。

好きなシーン、ストーリーとしての構図。
クライマックス、墓との対話シーンちょい前から道化が出現する。(皇兄も最終的に道化役だったが)
ナウシカ、墓、王、道化の役割がまるで演劇のようにはっきりしていてすごく良い。
蟲を捨てた善き蟲使い達に、「帰ったとき皆に伝えて欲しい」と言って話をするのだが、彼らには難しすぎていまいち理解できていないシーン。歴史が繰り返してきた無垢な人々と賢人のやり取りを伺える。
ナウシカが手遅れを悟りながら粘菌と王蟲の合流地で待つシーン。テトにチコの実をやって‘こんなに世界は美しいのに、こんなに世界は輝いているのに・・・・’まで。終末を能動的に迎える人の哀しさはこんなものか。
憎い兄のあっけない死を悟り、部下をムシャムシャ食べている蟲に向かって「お前が私の死か」といって安寧になるシーン。

今のところこれが、ナウシカ宗教学で背後を学んでないうちの雑感中の雑感。

うたの | 映画、書籍等 | 04:44 | comments(0) | - |
英国王のスピーチ

かつての上司が吃音だった。思い浮かんだ言葉が声にならず、発音しようとしても、喉から唇までが硬直するのである。
彼はそれを気にしながらも、日々仕事に励んでいた。電話に出たときや、部下である我々と話をするときも、相手は根気よく待たねばならなかった・・・映画を観ていて、そんな懐かしい日々のことを思い出した。
吃音という観点から、ジョージ6世と上司を比べてみると、たくさんの共通点がある。生真面目な性格、幼い頃からの継続的で特殊な緊張である。退路のない、身体が強張るような永い体験が、真面目で感受性の高いアイデンティティから自由な言葉を奪うのだ。
現代の認知療法で言われているように、吃音を含む色々な身体症状は、それだけを治療しようとしても無駄だ。花粉症の症状である鼻炎を止めようと薬を飲んでも、花粉症自体が治らないのと同じである。役者だったライオネルは経験からそれを学び、数々の聴覚障害を治してきた。自己否定観という心の傷は、患者が貴人だろうが賤民だろうが出所は同じなのだ。誰に褒め称えられるべきなのでもない。必要なのは、自覚、理解、肯定・・・そして、内から湧き起こる自信なのである。

主人公のジョージ6世はコリン・ファース。どうも演技しているところを見たことないなと思ったら、恋愛映画の出演が多い役者さんらしい。私はおそらく始めての作品だと思うのだが、吃音の感じ、生真面目ゆえの癇癪、萎縮、無力感が素晴らしく表現されていた。これから、もっと色々な役に挑戦していただきたい楽しみな俳優さんだ。
対する言語聴覚士ライオネル役はパイレーツシリーズのキャプテンバルボッサ、ジェフリー・ラッシュ。あちらも当初敵役ではあったが、チャーミングな存在感が光っている。無論このライオネル役も、公爵をいち患者として例外なく対するという一風変わった療法士であり、彼のケレンある演技がとてもマッチしている。

二人のやり取りが人間味溢れているのは予定調和だが、トム・フーパー監督の撮り方が嬉しい。ともすると落ち着きすぎ色褪せた映像、あるいはオーバーな感動ものになりがちなこのストーリーを、ありふれているが特別な人間関係として、上手く表現している。
私が好きなのは、やはり、ロンドンの街を散歩するシーン。ライオネルが立ち止まったところ、すなわち心理的距離を、かなり長い尺で撮りきっている。この執拗なまでの長さが私は好きだ。
療法室の色褪せた装飾。「楽に掛けて」と言われ、長いすの端にぎゅうぎゅうに座るバーティー。大らかで愛嬌のある愛情深い妃。子供たちとの距離感を時々のシーンに加えることで、王になったやるせなさとその再生を表現する手法も嫌いではない。それぞれの思案の場面で、人物を中央に置かない撮り方も、ある程度の心理的窮地や熟考を物語る空間として生かされている。
比較的若い感覚だが、落ち着きを含み始めた、巧みにバランスの取れた状態での描写に仕上がっていると感じた。

周りを固める俳優陣のキャスティングも、個性が溢れていて好きだ。
とても親しみのある妃殿下を『アリス・イン・ワンダーランド』『スゥイニー・トッド』でおなじみのヘレナ・ボナム=カーター。苦悩する夫を見守り優しく支え続ける妻を演じきっている。私としては、ハリー・ポッターシリーズの死喰人も印象深いのだが、真逆の役柄だ。
現代の実業家を思い起こさせるような社交的で自由な性格の兄・エドワード8世を、個人的に大好きなガイ・ピアースが好演。彼お得意の奔放な演技で、弟・ジョージ6世との明暗を成功させている。
父王・ジョージ5世は、いわずと知れたハリポタのダンブルドア校長役、マイケル・ガンボン。クリスマス放送時の威厳溢れる姿と、崩御間近の弱った姿の対比が印象的。
他には、『スゥイニー・トッド』とハリポタに出ているティモシー・スポールがチャーチル役、『ヒア・アフター』にご本人役で出演のデレク・ジャコビが大主教役。私にしてみれば、何だかお馴染みな俳優さんたちの同窓会といった感じで嬉しい。
うたの | 映画、書籍等 | 03:36 | comments(0) | - |
ヒア アフター

  一期一会という言葉がある。映画や小説の題材としては枚挙に暇のないそれが、実に巧妙に描かれている作品だ。巧妙と言ってしまうと語弊があるかもしれないが、彼らの出会うプロセスはもっともで、かつ、それぞれが独立している。
  主役はマット・デイモン扮するジョージなのであるが、彼は後天的に死者の声が聞けるようになった‘霊能力者’である。一時はその能力を生かし生計を立てていたが、死者の声に耳を傾けることで、図らずともクライアントの‘秘密を知る’ことになるという、(正確には‘クライアントが「すべての秘密が筒抜けである」と思い込む’) 正常な人間関係を構築できないジレンマに陥り、その能力を厭うようになる。
  観客は最初、彼の兄と同じくその切実な感覚を想像できない。ところが、ジョージが気持ちを吹っ切るために飛び込んだ新しい場所で、はっきりと思い知らされることになる。もし自分にこんな力がなければ・・・・彼が失意の末、能力を‘呪い’と比喩する理由が、克明、かつ淡々と描かれるのだ。
  特化能力について孤独を描く作品はいくらでもある。その方法については、劇的なものもあるだろう。しかし、本作品全体にいえることなのだが・・・・この‘失意’に至る表現方法が、とても自然で繊細だ。料理教室からの一連のシーンは、地味な男の日常から切り離されたところがどこにもない。ちょっとしたやり取りでの齟齬は、無論、彼が悪いのではなく、彼女が悪いのでもない。
  ちなみに、ジョージは独りで食事をするシーンが多く、これがまた彼の淋しさを巧みに描写している。

  びっくりするのは、どの役者さんも泣き方が上手いことだ。上記のメラニーが階段で泣くシーン、マーカスの母が福祉局で泣くシーン、どちらも久しぶりに観たグッとくる泣き場面である。
  双子役のマクラレン兄弟も上手い。マーカスが、兄との交流を求めて独り行動をする一連の場面は、子供らしい一途さに満ち溢れていて悲しい。(自称)サイキック達に行き着く過程も、やはり自然で説得力がある。次々といろいろなタイプの‘死後’を試すが、やはり失意に終わるという一連のやりとりも、矢継ぎ早で、彼が‘真実’を求めて転々とする感じが出ていてとてもいい。
  ちなみに、ジェイスが僕の帽子を被るなというくだり、悲しみのあまり同化する弟の心情を突き放し、あたたかく背中を押してくれている観がよく出ていて好きだ。

  最後の一人、マリー・ルレであるが、彼女が一番地位も行動力もあり、臨死という直接的なヒアアフターを体験している。ジャーナリストであるからこそ、おのれの見たものの正体に気を取られ、社会的には落ち目になってしまう。だが、彼女はただでは転ばない。政治や経済中心の世界では嘲笑されがちな題材を、ジャーナリストという立場から公平に伝えようとする。彼女の著書は地面から足の浮くような形而上なものではなく、無神論者で死後の世界など信じない医学博士のデータを利用して構築されたものなのだ。これは、死者の存在を現実のものとして感じたいマーカス、死者の意思を受け止められる現実を持ったジョージの在りようと繋がってゆく。

  冒頭にも書いたが、三人が出会うきっかけが巧妙だ。話が進んでゆくに連れ、彼らが出会い心を通い合わせることは想定されるのだが、その場所・・・・ブックフェスに赴く理由が偶然ではなく、はっきりと動機付けられているのがいい。マーカスが行動を起こし、最後ジョージが握手で手袋を外すシーンは、彼の孤独を観てきた観客としては、ごくさりげない動作だが感無量である。


 
うたの | 映画、書籍等 | 04:08 | comments(0) | - |
僕と妻の1778の物語

昨今のいわゆる‘死にもの’に苦言を呈す私ではあるが、この作品はいささか変わっていて面白い。逆に、あの号泣ノリに慣れ親しんで観に行った方は退屈だったかもしれない。
主人公は、友人の売れっ子作家にして「うすぼんやり生きている」と言わしむるSF専門作家(しかも古き善き作風)であり、少年めいた、頭に花が咲いたような言動で、他人の目を丸くさせるキャラクターである。
私はテレビドラマを1年1本見ればいい方なので、草くんの『僕〜』シリーズを1話も見たことがない。それなので、本映画が他作品の流れに沿ったタッチで描かれているのかどうかは判らないのだが、この主人公の人となりがいかにも曲者である。
話が進むにつれてひしひしと感じるのだが、‘死にもの’に向かないポヤンとした性格なのである。たとえば初盤で、ショックや使命感などで頭がいっぱいのはずの朔太郎は、偶然通りかかった玩具屋に飾ってあるフィギュアに喜び、我に返って「何をしてるんだ僕は」と首を振る。このエピソードだけで、もう、この朔太郎なる人物が、少年の心のまま大人になった人物だということが判るだろう。

横溝正史も金田一より戦前の御伽草紙的な短編が好きという私である。朔太郎の書く話について、少年の空想そのままのような不可思議タッチも嫌いじゃない。彼の‘創りだす’というより‘空想が広がる’という他動感を、フィルムとして、現実の延長線上で描く形は楽しい。
星護監督といえば、私は『古畑任三郎』『金田一耕助』を思い出す。どちらも人の死や切羽詰った動機を扱う作品だが、演出にはケレン味たっぷりだ。
本映画も悲劇のはずである。だが、朔太郎の構想を夢いっぱいに映像化する手法に加え、現実世界でも滑稽な演出が目白押しだ。高橋昌也さんの演じる掃除夫、階段の中途半端なところに座り真面目な会話をする二人の間をすり抜ける雑誌社の人たち、憔悴しきった朔太郎を見守る病院の人たち(ちょっとジーザス的な人たちが居るのも面白い)。それらは、僕と妻二人だけの直面する厳しい現実を取り巻きながら、観客の肩に入った力を抜いてくれる。また、純粋の極みである朔太郎の言動を、酷く劇的にさせない緩和剤としても役に立っている。
無論、ケレンでない演出も見事だ。朔太郎のキャラクターと、それを許す節子を存分に表現した平屋の自宅、仕事部屋。おおよそ病院ぽくない内観の病院や、レントゲンにおけるがん細胞の表現の仕方。特に、それを見た朔太郎の感じた眩暈めいた不安、恐怖などを、粒子のアップや印字の揺らぎで表す方法は、少年のシンプルな戸惑いと衝撃を巧みに演出していると思う。


残念なのが、主役の草くん。等身大の青年を演じるのには定評があるが、いかんせんこの朔太郎というキャラクターが突出しすぎている観があり、さすがの名優も持て余すシーンがいくつかあった。
他に誰が?と問われれば窮するのだが、こういうごく難しいキャラクターは、ショーン・ペンや、ソン・ガンホに代表されるようなタイプの役者さんがうまく演じてくれる気がする。(もっと若い人は今思いつかない ;) ちょっとした声のトーンや表情がもう一歩だっただけに、本当に、本当に惜しまれる。
そこがもう少し踏み込まれていれば、後半もっと感情移入できたと思う。
ストーリー上、朔太郎の妻に対する愛情は、穏やかで、あたたかくて、普遍的なのだ。それが、1778話目を記すあのシーンに描きこまれている。
(なにしろ私の泣きポイントは最後のト書き。眉村卓さんが毎日あれをやってらしたんだな・・・と想像したら・・・グッときた)
妻・節子役の竹内結子さんは、最近個人的に大注目の役者さんだ(ある時期を境に、格段に名演技になった・・・気がする)。自分が病だというのに、「ひとりじゃ心配」な夫をあたたかく見守り、苦労を掛けまいとするさまを、素晴らしい表現力で演じている。特に好きなのが、母に車椅子を押されながら、来年の手袋を編むシーン。いままで胸に溜め続けてきた感情を吐露する表現がたまらなく、いかにも節子というキャラクターらしい優しさにも満ちている。
この表現の幅が厚い竹内さんと草くんを並べて見てしまったから、余計物足りなさが募ったのかもしれない。
私が今回特筆するのは、友人の売れっ子作家に正反対の人物像を持ってきて、谷原章介さんがそれを演じたことだ。お調子者なんだか思いやりがあるのだか分からない滝沢をやるにはピッタリのキャスティングだ。地味でのんびりとした主人公夫妻との対比が面白い。
それと、一瞬しか出ないのだが、玩具店主の浅野和之さん、火星人集金人の小日向文世さん(あのシーン、声だけでも良かったのに・・・)が、独特のいい味を出している。
うたの | 映画、書籍等 | 01:41 | comments(0) | - |
特攻野郎Aチーム THE MOVIE
友人が土曜の部活をサボってよくTVを観に帰っていたのを覚えているだけで、私は実際原作?を観たことがない・・・・様な気がします。
ただ、設定はなんとなく知っていて、チームモノ好きな私は好感を持っていました。

複数単位の金字塔はシャーロック・ホームズ←コンビ かと思うのですが、‘チーム’の最小単位は4人で、この作品の人物配置はかなり隙がないなと思います。
人気テレビシリーズのリメイクで映画を作るということで、ストーリーはやはりキャラクター重視になっていて趣向も押さえ気味。‘復讐’に至るまでの導入部は、古き善き時代のノリが窺えて、懐かしい気分に浸れます。←知らないけど
予告編で笑いまくっているわりには笑顔のシーンが少ないのは、‘リベンジ’というコンセプトのせいかもしれません。ただ、原作を知らない私とすれば、もっとはっちゃけてても許せます。むしろ物足りなかった感じも否めない・・・。80年代の原作の世界観を大事にするためには、これぐらいのほうがしっくり来るのかもしれませんが。
一番楽しいのは、CMでもおなじみ、戦車で落ちるシーンかな?はっちゃけぶりが素敵です。

特筆すべきはやっぱりあの『第9地区』のシャルト・コプリーさん。天才操縦士にして真性イカレ野郎のマードックを電波系の普通なテンションで演じています。(‘電波系の’‘普通なテンション’ていうのが大事!)この人の演技をもっともっと見たい!
あと、B.A.役のクリントン・ジャクソンさんですが、観終わってから知ったのですが、格闘家さんだというじゃないですか。
私は英語の機微を理解できないのでアレですが、ガンジーの言葉を思ういくつかの場面(役者さんでないというのなら、麻酔を打たれてぶっ倒れる場面なども)は、遜色なく上手だと思います。この形而上なメンバーの中、唯一ずっしりと重い実在感があるというか・・・。

個人的に好きだったのはフェイス役のブラッドレイ・クーパーさん。私は恋愛ものをまったく観ないので知らなかった役者さんなんですが、見た目が私好みです(笑)。
リーアム・ニーソンさんは普通に渋いです。個人的にはちょっと前に見た『タイタンの戦い』のゼウスのほうが印象的。←キャラクターがですが


うたの | 映画、書籍等 | 06:51 | comments(0) | - |
座頭市 THE LAST
残念ながら、キャッチのように「せつなすぎる純愛に散っ」てはいません。
市は視覚障害者という社会的には弱者の立場ですが、 圧倒的に孤独な「強者」なのです。
やっぱりこの‘弱くて卑怯な弱者へのアガペー’がたまらん(*´Д`*)

まず、市の座標軸を知るための、竹やぶから行き倒れにかけてのシーンからして、息遣い、静粛、風の音など、物凄く必死で物凄く孤独な彼の世界観に、安穏とした観客は度肝を抜かれます。
百姓や漁師を思いやる市は弱き者の、生きるための罪を赦すのですが、その赦しゆえ、彼は更に搾取され働くことを要求されます。
弱さ故、許してくれと言いながら市を利用し忌ませざるを得ない人々。それを悟り、受け入れる市。
市の「まっ暗闇」な世界は、友である柳次や村の百姓たちとは一線を画しています。唯一味わう事の出来た同一感のある女性を亡くし、彼の中にはごく低温の絶望感しかない。それを抱えながらも、彼は世界にたった独りで生きて行くしかないのです。

『カムイ』でも似たような世界を観たのですが、あちらのほうが若々しく、逃亡者の孤独という意味合いが強い。市は決して逃亡者というわけではなく、在るだけで孤独であり、生きること一瞬一瞬がごく厳しいのですね。
膝を抱えたお地蔵さんを抱え起こすシーン、柳次と最初に会う時(手のアップも痛々しい)と訴状持ってく時の賽の河原の石積みなど、さすが阪本監督というか・・・象徴的でよいです。
特に、あたたかさを刹那でさえ味わうことの許されない「あったけぇ」のシーン、危険なものに触れていたように倍賞千恵子さんがパッと離れちゃう所が、本当に素晴らしい。

竹やぶで、ひとり転がった後で追っ手が一斉に顔を出すシーン、その後引きで撮るところとかも好き!
夢の続きめいた、フィルムの途切れたような、最後の海のシーンもかなり哀しくてお気に入り。

作品全体的に漂う哀しみは、私の思う赦しの在り方に似ています。
市は怒り、呻き、咆え、誠意をもって元凶をなくそうとはするけれど、自分の復讐はやりたがらない。
その絶対的な孤独とアガペーが、100人中1、2人にしか通じていないあたりがいい。
刀を逆手に持ち、歯を食いしばり、地を這うような殺陣を見せる。斬ってはいるけど自分も簡単に斬られるし、相手の拳に拳を重ねて地味に刃を遠ざけて斬ったりとなど、ごく実戦めいている。憎らしい悪役が派手に斬られないあたりもいい。
それから、余裕で勝つわけでないところも、受難という感じでいっそう孤独だ。(ここはカムイと一緒)
残念なのは、天道親分との斬り合いシーンのフェイドアウト。あそこで見せたいのは斬り合いじゃないというのは判るんだけど、個人的にはもっと観たかったなー。

市の孤独を描き切る上で、北野監督作品『座頭市』に見られるような、時代劇のセオリーであるステレオタイプのキャラクターが出てこない。
先見の明があるが冷血で強引な天道は、息子の寅治には親のシンプルな愛を見せ、強大な父を畏れる寅治は一見軟弱そうだが、複雑な狂気を内包している(壁に描き始めちゃうシーンは、さり気に追い詰められてる心情が表現されてて良い)。寅治の最後の言動は、いかにも幼い子供のようで巧みだ。こういう事件からモンスターが誕生するのかもしれないという予兆もはらんでいる。
島地親分は、やくざというより網元的性格が強く、面倒見のいい好い親分だが、それは秩序ありきの場所での話で、ひとたび紛争が起きれば昼行灯で役に立たない。されるがままで裏切られるのは予定調和だが、キャラクターに説得力がある。

『黒部の太陽』でなかなかな演技を見せてくれた香取慎吾さんですが、この座頭市もとても良かった。特に、悪くないのにすぐ「すいやせん」と謝る市の自明を表現するのがホント巧かった!
天道親分役の仲代さんは文句なしに自然な迫力、器の大きさを見せてくれている(別格だ)し、島地組の二人も、古き善き極道というか、中小企業の役員さんめいた感じを巧みに演出してくれている。昔馴染みである柳次役の反町隆史さんも、近年なかなか味のある演技を見せてくれるようになった。
用心棒役の豊原功補さんは、当作品の中でもごくステレオ的な悪役を演じているのだが、自然な異常感(変な日本語;)を醸し出すことに成功しているので、ちっとも浮くことがない。(門前で、逆側から走り出てくるところの得体の知れなさがいい)
それから、ARATAさんがああいう極道な役をやるのも珍しいのだが、それより寅治役の高岡蒼甫さんが上手い!それから、いわずと知れた加藤清史郎くん。父に縋って泣く→刀拾うシーンは上手いなぁ・・・。
お気に入りはもちろん、原田芳雄さんのお医者さんですけれども。

阪本順治監督作品といえば、『KT』『クラブ進駐軍』『亡国のイージス』『闇の子供たち』と、私好みな作品が並ぶのだが、ダントツにこの『座頭市THELAST』が好きです。赦しという主題にあわせて、映像がいちいち美しくて自然で、かつ象徴的なんだもの。厳しさを助長する津軽三味線の音楽もいい。

セルにはメイキングが入っているらしい・・・・観たい!観たいよぅ←レンタル

うたの | 映画、書籍等 | 02:33 | comments(0) | - |
沙羅双樹
評価:
河瀬直美
美しき繊細な少女マンガ
奈良の不思議な風景
不思議な緊張感に満ちた映像


前述の主人公役・シャルト・コプリーさんが全編アドリブだと聞いて、ビックリしたのでレビュー。

実はこの作品も、全編、全員アドリブです。

河瀬監督の映画って、実は他に見たことないし、この作品も、DVD発売当時に一回見ただけなのでアレですが・・・。

わたしとしては、あまり好きではない試みです。

こういうお話には、決まった台詞があって、なおかつ淡々と進んでいくほうが自分好みというか・・・・。
(せめてコアである台詞だけは決めておくとか・・・・)


『第9地区』は、日常を扱ったものではないし、起承転結のハッキリしたものだから、自分的には案外良かったのかもしれない。


兄ぃと慕う生瀬勝久さんが、お父さん役で出ています。



 
うたの | 映画、書籍等 | 00:47 | comments(0) | - |
第9地区
評価:
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エビちゃんに…
中途半端なんです。
やはりアパルトヘイトの南アがサブテーマ


異星人の難民居住区があって、地域住民との摩擦が云々っていうあらすじを聞いていたので、『アトム大使』みたいな話かと思ってたら違いましたね。

まず最初に、ドキュメンタリータッチで始まるのがいいですね!
さまざまな立場の人の意見、問題のヴィカスのブイなどが入って、これからこの人にどんなことが起きちゃうんだろう?とハラハラドキドキしてしまいます。
しかもこのヴィカス、お世辞にも勇敢だったりリーダーシップがあったりしない、どこにでもいそうなおじさんだし、この人に一体どんな大それたことが出来るわけ?と疑問にも思います。

この話、エイリアンと充分な意思の疎通が出来、英語が公用語だってところが面白い。
乗組員だって、大きい船ほど、そのシステムや操縦の仕方を知らないスタッフが大勢居るわけで、船内に閉じ込められていたエイリアンたちは、おおむねそんな作業員のようです。
貧しい難民キャンプで生き抜くわけですから、治安は最悪になってくる。
そこで、国連めいたMNUが強制移設に乗り出してくるというところが発端なわけで。

宇宙船は動かないのでさることながら(ここではテーマから外されている)、問題はその武器科学。
エビエイリアンと他種人との区別がつく武器が常用されているところから、エビエイリアンは戦闘に慣れているということがうかがえます(便利)。
ただ、難民エイリアンに関して言えば、いまだにそんな武器を蓄えながら、人間への大きな抵抗を見せないのだから、穏健な高等生物というわけです。
弾圧に武力で抵抗しないからこそ、数多にあるSFとは一線を画し、人権問題的要素を強めているのですが。
(武器の破壊力が凄い、無駄に凄い!RPGクラスの破壊力だけど、爆風がないというのが特徴)

話の途中から良く見えてくるのですが、要は、非弾圧民族を異星人というデフォルメに仕立て、問題提起をしているのですね。侵略SFでも反戦映画でもなく、これは人種・文化などを含むあらゆる差別をどう考えるかという作品なのです、しかも体験型の。

クリストファーは、他のエイリアンと違い、ちゃんと教育を受けた宇宙船スタッフのようで、ヴィカスに比べてとても紳士的で、指導力もありそうです。
そんな二人の利害が一致したやり取りが、俗に言う‘相互理解’とは全く違うもので、感動などをなかなか持ち込ませないところがまた良いです。

しかし、例のバイオ燃料・・・クリストファーは「さもありなん」的な表情を見せますが、何でアレが元でああなるのかが不思議ですね。
ウイルスでもなく、人間にとってはたかが燃料に遺伝子操作できるような因子を発見したりプラスしたりする必要性がないけれど・・・。(しかも、鉄くずの山から見つけたものが原料だったし)

あとひとつ気になったのが、どこのクリチャー演技によくあることなんですけど、表情が判りづらくなるからなのか、無駄な動きが多いこと。
獰猛という感じを出したいのかも知れませんけど、いかんせん、このエビエイリアンは特に獰猛ではないキャラクターなので、個人的にはもっと人間くさい動きが良かったかな。
せめて『パイレーツシリーズ』に出てくる元人間の怪物程度の、普通の動き具合が欲しかった。
クリチャーにつきものの、粘膜は健在ですね・・・・。

話によると、ヴィカス役のシャルト・コプリーさんは、全編アドリブだとか(!)。
序盤のMNUの記録ビデオシーンは、だからこそ、なにやら凄くリアリティがありますよね。
最後はラピュタのロボットみたいなレイバーみたいなのが出てきて、活劇好きにもサービス。

この話は最初に、エイリアンに思う存分嫌悪・差別感情を抱かせてから、その嫌悪感の中へ、観る者を徐々に突き落とします。
一番肝心なことは、ゾンビなどと違って、姿が変わっても、中に宿る魂は同じなんだということですよね。そこが本人にとっては、一番の悲劇であるわけで。
グレゴール・ザムザをちょっと思い出しますね。

クリストファーが旅立つ時点では、まだ、ヴィカスは彼を利用していたという感が否めません。
私が気になるのは、彼がヴィカスを治しに来るのか、ということより、もしヴィカスが元に戻ったら、一体どういう行動を取るのだろう?ということです。
愛するタニアのところへ戻り、エイリアンの事情を聞き及ばない場所で、ひっそりと暮らすのでしょうか。
それとも、こんな目に遭った恨みを晴らすべく、更にエイリアンを弾圧する側に回るのでしょうか。
はたまた、3年以上の難民生活を肝に銘じで、それらの救済運動に立ち上がるのでしょうか。
ただし前述したように、ヴィカスは勇敢でもカリスマでもなく、市井のおじさんで、孤独です。

これは私たちが直面していた問題から開放された時、どういう選択肢を取るのかという問題提起でもあります。

でもアレだ。個人的に甲殻類似はダメだ、甲殻類似は・・・。←見事に製作者の意図にはまり、うんうん考えさせられる羽目になる


うたの | 映画、書籍等 | 00:43 | comments(0) | - |
インセプション

私は元来‘夢’に興味のある人間である。
意識の無防備になった夢の中に潜入し、‘アイデアを盗む’という趣向も充分面白いが、それに加え、‘アイデアを植えつける’(この場合、日本人にとっては‘アイデア’というより‘観念’という言葉の方が解りやすいだろう)という展開がいたく気に入った。
夢の特性を上手く利用し、夢の中の夢、覚める瞬間の危機、景色や天気、体感時間の差など、思い起こすほど面白く緻密に設定されている。

題名にもなっている‘インセプション’だが、主人公たちの試みる‘植え付け’は、たとえばゲシュタルト療法やサイコドラマなど、心理療法に取り入れられる方法にも似ている。
実際相手がどう思っていたか、感じていたかは問題でない。自分の中で建設的な解釈・解決策を再体験することで、先入観や固定観念が崩れ去り、ポジティブな思考が原風景に取って代わるというものである。したがって、ロバートへのインセプションは、ともすると可能性に満ちていて、新たな展望となるやもしれないわけだ。

こちらは、ミッションにしては建設的なインセプションなわけだが、もうひとつ登場するインセプションは絶望的である。
観念というのは、一度囚われるとそこから解き放たれるのに相当なショックが必要とされる。いくら説き伏せても変えようのないものこそが‘観念’の正体である。
レオ様扮するコブが恐ろしげに口にする‘アイデア’≒‘ウイルス’の話を聞いて、私は、京極夏彦の‘呪’を思い出した。あちらの世界では、それを払拭するのが‘憑き物落とし’、つまり京極堂の仕事というわけなのだろう。

レオ様といえば『シャッターアイランド』の名演が記憶に新しい。
あちらも亡き愛妻がらみの話でデジャヴ感はあるが、私は本作品の展開の方が好きだ。
あちらは‘記憶’、こちらは‘夢’を題材にし、レオ様が扮する役どころを、それぞれ真逆の方向へと導いている。
確かに人間のイマジネーションは無限で、夢を自在に設計することが可能なら、アリアドネの言うように‘天地創造’を体験することも容易にできる。
しかし、そこで創られるのは風景であり人‘影’である。結局、他人のアイデアを盗むことは出来ても、いくら愛す人とはいえ・・・他人に内在する複雑なパッションを緻密に再現することなど出来ない。
己の創造物は、己のイマジネーションを超えることは決してないのだ。

クリストファー・ノーラン監督の作品といえば、『メメント』と『ダークナイト』が好きだ。
この作品は、ダークナイト寄りの音楽となっていて、いかにもノーラン世界らしい。
テーマへの個人的興味を差し引いても、主人公の抱える個人的トラウマ、仲間との連携、思わぬ障害、命の危険、人物それぞれの奮闘、時間との戦い等、ストーリー構成も息をつかせない。
ラストの選択肢も観客それぞれに任されていて、観た後も余韻を残す洒落た作りとなってる。

日本では、渡辺謙さんが多く出演するということで話題になっているようだ。
邦画での役どころは正直頭打ちである。『沈まぬ太陽』『明日の記憶』など、日本のがんばるサラリーマンや、『ラストサムライ』などの武将演技は、名演ながらも、いささか飽食感が否めない。
しかし、この作品では、大企業のトップながらアグレッシブに立ち回るという、かつて見たことのない渡辺謙が見られてとても新鮮だ。
この役者さんがこんなに色気のある人だと思っていなかったので、私としては新しい発見に喜んでいる。今後も、予想できないような興味深いワークをどんどんこなして、私たちを楽しませて欲しい次第だ。
個人的に印象に残ったのは、アリアドネ役のエレン・ペイジさんだ。この人の出演作を観るのは初めてなのだが、ちょっと呟いた際の台詞の上手さが、何回も際立っていた印象だ。
あと、調合師役のディープ・ラオさん。『スペル』で、主人公をアシストする占い師役をやっていたのを思い出したので、とても親しみやすかった。
それから、ロバート役のキリアン・マーフィーさんも、バットマンシリーズのスケアクロウ役でお馴染みの役者さんである。
またまた、個人的に気になったのが、アーサー役のジョゼフ・ゴードン=レヴィットさん。第2階層を仕切るという役どころがおいしかった他には、何が良かったとハッキリ言いづらいので、ただ、背広にオールバックといういでたちが自分好みなだけなのかもしれないが・・・。
うたの | 映画、書籍等 | 02:00 | comments(0) | - |
Dr.パルナサスの鏡
評価:
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大衆娯楽としてどうなのかな?と
わかりにくい
世界観を味わう映画。


あの『ダーク・ナイト』でとんでもなくいい演技を見せてくれたヒース・レジャーの遺作となるわけだが、ここでも彼は素晴らしい(イラッとする)演技を見せてくれている。
‘非現実’といえば話題の『インセプション』があるが、あちらは‘夢’を体系化したもので、この‘幻想館’とは趣向が違う。
私はどちらも好きだが、この作品で特に好きなのが、イマジネーションを介した悪魔と人間の戦い(悪魔から見ればゲームなのだろうが)という構図である。
パルナサスは博士・・・というより当初高僧?なわけだが、そのような卓越した身分の人間をそそのかし、欲しがるものを与えることで、悪魔は彼を永遠の‘遊び友達’とする。

とにかく悪魔ニックの登場が、いつも人を食っていて面白い。彼は何をするでもなく、ちょっとしたトークで人を惑わすのだ。そのあたりはメフィストフェレス的であり、ペテン師トニーと似ている。
トニー自身は露ほども思っていないが、彼はとんでもないペテン師である。
ジュード・ロウの演じるトニーの世界は、まさに現実世界によくある一部のエセ起業家たちの姿そのものだ。
パルナサス博士は永遠と絶望に苛まれ、アルコール浸りの毎日だ。そんな父親の苦悩を露ほども知らないヴァレンティナは、閉塞感のある毎日を抜け出し、16歳の青春を謳歌したいと願っている。
そんな二人はお互いを深く愛しながら、いつも上手くかみ合わない。

この作品の特徴として、イライラする台詞の言い回しが多い。
秘密を言いそびれるパルナサス博士。
正体に気づかれまいとお茶を濁しまくるトニー。
ヴァレンティナやトニーをはじめ、誰に対しても空気の読めない好青年アントン。

アントン役のアンドリュー・ガーフィールドは『ブーリン家の姉妹』でかわいそうなとばっちりの弟を演じていて印象に残っている。今回も頼りない青年役だが、これがまたしっくり来る。

それにしても、ちょっとしか出なくても、ジョニーデップは何故あんなにかっこいいのだろうか。←アホ

ただこのトニー役は、いつもの囁くようなデップ節では雰囲気が出ない。
はきはき喋ってこそが実業家系詐欺師のトニーなのだ。
その点コリン・ファレルのトニーは軽薄感が出ていてとてもよかった。ラストにかけてのトニーは彼で適任であり、パルナサスやニックと共に、観客もトニーを忌々しく思うことが出来る。

人間のイマジネーションの夢幻さ、滑稽さを描き、‘永遠’に憧れる人間を揶揄するこの作品。
見終わった後、どうせ永遠になるなら退屈だから悪魔のほうが面白そうだな、と思った私は間違いなく爆発の類の人間である。
それにしてもパーシーは一体何歳という設定なのだろうか?
うたの | 映画、書籍等 | 01:54 | comments(0) | - |
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